昭和40年9月20日 朝の御理解
久留米の初代の石橋先生が、御晩年には、チューブのチューブでしょうね、体が不自由でおありになった。そのう私共はそれを御存知上げておりますが、これはあの、広い廊下に長い戸椅子を置かれてその、戸椅子にいつも寄りかかっておられた。そういうお姿は、見て知っておりますが、それでいて、あれはあの、お広前にお引き寄せを頂くご信者さん方の、お取次ぎをです、なさっており、また、知っておられるはずではない、石橋先生が誰々が今参って来たんなと仰っておられたということですから、非常にこの霊徳神徳に優れた、お徳を持っておられた方には違いないですね。
その、石橋先生に福岡の、現吉木先生があちらが親教会でもありますから、色々な、御祭主なんかは代わってなさっておられたのです。で、久留米に出て見えますともう必ず、石橋先生の所に、ご挨拶においでなられてから、もうそれをいつも仰っておられたという事ですが、んー、親先生、本当にあなたの頂いておられる御神徳というものがです、んー、御神徳なしには人は助かりませんし、またあなたの御神徳を頂いて私はまだ、若うございますし、元気でございますから、これから、十分お役に立ちたいと思う。貴方の御神徳をどうぞ私に下さいませんかという風なことを仰った。
もうでももういつも同んし事を仰った。そのたびにその、必ず御祈念をなさるそうですね、石橋先生。もう本当にやれるものならやろうという気持ちなんですよね。譲れるものなら譲りたいという気持ちなんですね。もういつもその、目をつぶって御祈念をなさってから、そして仰ることはいつも同じ事であったと。
そうなあ、御神徳というのは神様のご信用じゃからなあと仰ったそうです。ね。もうその、同じことだけれでも必ず、その、目をつぶって御祈念をなさる。そして、仰ることはその事だった、そうなあ、神様、御神徳というのは神様のご信用だからなあと仰る。
ね。私はお道の信心はもうここだと思うですね。神様のいわばご信用を受けさせて頂く事のために、お互いが信心の稽古を一生懸命させて頂いて、私共、知っておる限りで本当にあの、御神徳家として、有名でおありになった、先生方のご信心ぶりといったようなものを実際に聞いたり見たり、または、お書物を読ませて頂いたり致します。
やはりその皆さん、ほんと神様のご神徳を受けなさる人は違うというやっぱり特別なものをお持ちになっておられます。ね。
その、いろんな特徴というか、特別なものをお持ちになっておられるんですけれども、私共もそいういうような、御信心を神習わせてもろうてからそれを自分の物にしていくということ。
小倉の初代の桂先生なんかは、どういうところが、ああいう大徳を受けられたのであろうかとこういう、とにかく第一もう、神様に対して、なんというですかね、無条件でおありになったということでしょうね。もう、神様の前にはもう、しかも一途であったという事。非常に神恩報謝のお気持ちが強かったと言う事。前には進んでも後ろには退かんという不退転のお気持ちが、大変強かった事。
もちろん、修行精神も大変強くあられたという事。とにかくその、神様の前に一途であったという事。私達が神様の前にどの程度に一途であろうかと、どの位一途な物を持っとるだろうかと。
福岡の初代なんかでも、二代金光様があー、桂先生に仰っておられるますように、願行にかけたら、吉木栄蔵の右にでるものはおるまいと仰って、もう驚嘆されておったというほどに修行精神が旺盛でおありになった。もうしかももう、70いくつになられる、その、もう、お年を取ってから、布教に出られたんですからね福岡に。
その晩年にいたるまでその、修行精神その旺盛であったという事はあーその、私共お話を頂きますと、それを聞いておりますね。もう本当に亡くなられる頃まで、例えば、(?)一週間だけは断食をなさっておられたということのですけれども、それを伺っただけでも、それはそのう、願行、行の強いお方であったという事が分かる。私共どのくらい願行の精神があるだろうかと。
ね。練るだけは練らなん。ね。いくら先生ち言ったって食べるもんだけ食べてから。ね。これでは、なるほど私達は神様のご信用は受けることは出来んなとこう思うです。ね。
まあ、色々、指折り数えて、ほんとに神様のご信用を受けられるような方達がどういうような事に強かったかと、もちろんその、真心が強かった、親切であった、例えばこの、親切一つでもです、お互いが本当にどういうように、親切であるかと。人に対して。本当にあの、親切でなからなければいけませんですね。自分の、とにかくその、親が子を思うような切実さをもって、人にも接して行くというと言うこと。
先日ある方がもう本当にマルマルさんというかたはどうして親切なかたでしょうかと言うてから、ここのご信者さんのことですよ。先日、んー、自動車で送ってもらった。ね。もう本当に、その人のうちから、あれだけ、遠り、回り道になるのに、わざわざ、ならもうここでよかと私申しましたけれども、まあ結局あたくしのうちの前まで、送ってきてくださったんですけれども。もう本当にあの人の親切には頭が下がると言うて喜んでおられるのを聞かしてもろうて、折角だというのなら、自動車なら自動車に乗せて頂いて、ここでよかですか、さよならと言うてこうその、まあそこに放からかすような事をせずにです、本当にそれだけの私は親切というものをです、勿論、福岡の方ですから、もう遅くなりますわけですね。ですから、やっぱり回りになってもそこんところまで、送って上げられる。
それがもう、当たり前のことのようにしてそれを、されるというところにです、その人を本当に親切だというてこの人の心に通う、本当にすいません、本当にここに乗せてきてもろうてから、それは、そこまでは誰でもするけれどもですね、それから先が大事だと思うですね。親切な人。親切一つですら助かると仰る、そこにはもう、計算がない。そろばんがない。本当に親切でありたいと思うですね。
甘木の初代なんか、様々な優れた信心を沢山しておられたけれども、中でもとりわけ、先生の独断上と、まああそこが神様の御信用を受けられたのであろうと思う事は、あの、神様の御物という事に対して非常に、謙虚な態度で大事にされた事でしょうね。あれだけでもやはり神様のご信用を受けられるのに十分と思われるように大事にされた。それこそ、ほこがみ一枚でも、ね、木の葉木の枝一枚、一本でも疎かにされなかった。ね。あちらで修行をした人達がもう皆、そういう修行をさせられておられ、また、教えられておられるのです。必ず、あちらの修行生の方達が交代で風呂を焚く。ね。それにその、おー、非常に沸きすぎてもやかましい、ぬるかってもやかましい。それで、えー、まあ、燃料なんかはもう出来るだけ普通なら金で買った燃料は使わずに、まあ、広いですから、木の枝とか木の葉を拾うて来てから焚かれる。
ね。それでその、沸き過ぎたというようなことを口上を言われると先生、今日のは石炭やらいっちょん使っておりません。今日はもう、お掃除の時に木の葉やら木の枝やらを拾うてきて、それで焚かせてもらいましたから、今日んとは金がかかっておりませんから、というふうなような事を言うと、あら、木の枝やら木の葉やらは、神様の御物じゃなかたいなあと言いなさったそうですね。金で買うたとか買わんそげな事じゃないんだと。私が言いよるのは。
その、木の葉一枚木の枝一つでも神様の御物じゃなかたいなあと、それこそ、胸にブスッとくるようにその、教えておらえたと。成る程、金で買うたものだけを大事にするのではない。天地自然が創り与えておって下さるもうそれは、木の枝、枯葉一枚でも、お粗末にはしちゃあ相済まんというその、精神がです、徹底しておられたという事。
ね。そこで私は思わせて頂くんですけれども、椛目では本当に皆さんが御神徳を受けさせて頂くのに、はあ、本当に御理解を頂いてから、御理解のようなあり方になったら、だれでも御神徳を頂くだろうと私もそれを、思うのですけれども、椛目の場合はそこが疎かになっておる。だから本当に、私共やはりそういう、ほんとに実際に体得を受けられて、ご自身もおかげを受けられ、周囲も沢山明るくなるような助かりをしたと言う人達のです、そういう、信心を私共の物にしていくというだけの努力というものが必要です。親切が欠けておる。真心が欠けておる。修行精神が欠けておる。ね。神様に一途なものが欠けておる。ね、欠けたものだらけなのである。
ね。だからその、おかげだけは頂いてもお徳を受けることは出来ない。神様のご信用を受けることができない。信心させて頂く者、教祖の神様が仰っておられるのも本当はここのところだけを仰っておられる。ね。
雨が降るから、風が吹くからえらい大儀と思うてはならん。その、辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃとこう言う。身に徳を受ける修行というはその、雨だから風だからとそれを厭う(いとう)ような事では出来んて。と言うことはどういうことかというと、神様が下さる、雨であろうが風であろうがです、それを本当に辛抱して受けて行くと言う事。ね。それはまあ、いうなら、私の信心の独断上とまあ自分でも思っておるんですけど、徹底して出来ません。出来ませんけれども思っておる事ですけれども、これを成就したらもう必ずお徳が受けられるだろうと思うんです。ね。いわゆる、私がいつも申します、成り行きを尊ばせてもらおうとこういう事。ね、尊ばせてもらう、大事にさせてもらうという事。
ね。ここを一つ、御神徳とは神様のご信用じゃからなと、ね、だからあの、いかに福岡の吉木先生がです、久留米にお見えになる度に、石橋先生にあの大徳を頂きたいと、いかに、お頂戴をされましてもです、もうお前この前も言うたし、もう何遍も言うたから、ね、(ならこう?)いっちょあげなこてと言うわけにはいけなかったということです。それでもやっぱりやりたいと、皆も私のような気持ちになったらどんなにか、有り難いだろうとこう思われるから、私は必ず、瞑目をされ、必ず御祈念をされたという事はその事じゃなかろうかと思うんです。
ね、皆さんがどうぞ、おかげを頂きたいと、私が言う事はいつも、同じ事。おかげを頂きたいと言うてんならお届けするから、あの、頂いてもらいたいと私も思うです。それで私が言う事はいつも同じ事。ね。そして、言う事はです、ね、私の信心のまあいうなら中心になっておるもの、それを皆さんが信心の身に付けておいでられる以外にないと。
ね。皆さん、私が別に御徳を受けておるわけではないけれども、神様が私でなからねばならん、というてお引き立てを下さった。私にまあいうなら白刃の矢を立ててくださった。教師でもない私にです、取次の真似事をさして下さるようになった。そして、事実の上に人が助かるようになった。私の何処を神様がいうなら、認められただろうか、どこを神様は、取り柄にして下さったろうか。皆さん一つ私の信心に15年間もいうならば、お付き合いを下さったのですから、皆さんが段々分かっておいでだろうとこう思うです。
だから分かったらそれをです、やはり本当にいわば、師匠のものを自分のものに、するという事はです、ね、師匠譲りというものがです身に付いてこなければだめですよ。
やはりこれは芸事でも、芸事の一切がです、やはり本気でその人の芸なら芸をもらおうとすると、その人のもうよかとこ悪かとこをです、必ず、それに移って行くです。本気で稽古しようとすればです、必ず、私のような状態というか、私のような風というものが皆さんの風の中に出来てこなければ嘘なんだ。もし出来ていないとするならですよ、ね、その人の信心を本気で頂こうとしてないと言うことです。ね。
それはぎこちないであっても、それが師匠譲りのものがです、段々出来てこなければ嘘だと私は思う。ね。
一つあたくしの、ほんとにその神様のご信用じゃからなあ、と仰るそのご信用を頂きたいというその、思いは誰にも負けんほどに持っておる。ね。ですから、本当に桂先生のまたは石橋先生の吉木先生の甘木先生のそういう先生方がなさった例えば修行、あの先生のどこが神様のご信用を受けられる元であったかといったような事を、訪ねさせてもらい、それを自分のものにしていきたいと言う願い。同時にこれは私だけのもの。それをいよいよ、まあ、完璧になものにしあげて行く、その信心、精進努力というものが私は必要だと。ね。やっぱり吉木先生じゃないですけれども、先生あなたの頂いておられる御神徳を私に分けて下さいとこの願いが必要。と言うて願いだけではいけん。ね。願われたからというてからんなら、吉木先生が石橋先生の全てを受けておられるとは思われませんもんね。
願うからにはです、やはりんな神様のご信用を受けるということはどういうような心の状態やあり方にならせて頂いたらそのご信用が受けられるだろうかという願いをね、持たせてもろうてから、もうどれにも匹敵しないどれも自分には無い、がっかりするごとある。それを感ずる。ね。これだけ親切だ、真心だと言われてとおるけれども一つもそれに徹底して、親切のところが無い。
自分の好きな者にだけ親切にするてありゃ親切じゃない。ね。ほんとに例えば、どの子もこの子もうるさいと思えど要る子ばっかりなるというようにです、うるさいと思うような相手に対してでもやはり、要る子ばかりなるというような心情を持ってです、接しられるような私に成らして頂きたい。
あたくしは自分の信心であのう、どこがあたくしが、あー、神様に見てもらえたのかと言うと、あたしはこう馬鹿んごたるところじゃろうと思うです。あたくしの。ね。もう確かにあたくしはですね、誰が言いよりなさったちゃ、はあ、それほんに良かのち思たらほんとに良かて思てしまうですもの。
この頃あのう、総会の時もあるそのう、総代さんの話を聞きよったらほんのこて、もうそりゃもうほんとよく思いつきよったお前達とこう思うんです。(安倉?)桜井先生来てから、あー、それいけんですよこの方がいいですよって言うから、ほんとそれの方がよかごとなってしまうです。あれやはりあの、馬鹿のごたるごとじゃろうと思うんですね
自分のというものがあんま出て来ないです、あの人はああ言いよるけれども、この人はこう言いよるけれどもといったようなものがこの、誰よりも少ないごとある生まれつき。まあそれを良い言葉で言えば、素直ということになるんじゃないでしょうかね。ほんとに神様の前に一途さを絶えなかった。修行精神も絶えなかった。親切真心もほんとに、えー、うーん、少ないけれどもです、ただあたくしは神様の前にそのいうなら馬鹿んごと素直であったということですね。
成る程その、素直であったち言うことは馬鹿んごとであったんですね今から考えてみると。ようあげな神様事仰ったのに、ほんとにああいうことに対してでもやっぱあたくしは、ある意味で言う事を聞かして頂こうとね。重々出来とらんでも聞かせて頂こうという努力を一生懸命しとります。そんなところじゃなかっただろうか。
成る程み教えにも下さるように、ね、確かに素直の心一つででもです、雲の上までも登れれるような道がつくんだということが分かるんですけれども、それとても徹底しては出来ませんからせめてです、御徳を受けられた方達のです、信心ぶりというものを見たり聞いたりさせて頂いて、そしてそれをそういうような物を自分の物にさして頂こうとする精進、努力というものがです、必要じゃないでしょうかね。
金光様の御信心はもうどこまでもあたくしは神様の御信用じゃからなと仰る。神様の御信用を頂くことために日々あたくし共は奉仕、奉仕しなければならないと思うんですね。果たして今しておる事が行のうておる事が、ね、思うておる事が神様の御信用を受ける事に、に十分の思い方や有り方であるだろうかと思うてみて、これは反対に神様の御信用どころか神様が嫌な顔しなさるじゃろう、嫌な思いをなさるだろうと思うようなものがこれにあるならばです、それを例えば除かせて頂くということだけにぐらい一生懸命にならにゃあいけんと思うですね。
どうぞおかげを・・・・・